こんにちは、ひがし保育園です。2500年前にお釈迦さまが、弟子たちにこんな問いかけをしました。「仏弟子と、一般の人々は同じ人間やん?嬉しいことを感じたり、憂い、悲しみを感じることもあるんやけど…
仏弟子も、一般の人も「感情」が生じるのは同じやろ? それやったら修業に励んでいる仏弟子と一般の人々は何がちがうかわかる?」
弟子たちが返答に困っていると、お釈迦様はこう言いました。「それは『二の矢』を受けるか否かやで~」と。さっぱり理解できない弟子にお釈迦さまは続けて説明しました。
「人間である以上、出来事に対して怒りや悲しみを感じるのは、仏弟子であれ、一般の人でも同じやねん。これがいわゆる『一の矢』な。」
「でも、人間はその『一の矢』になんか理由つけたくなってしまうねん。あの人がこう言うたからや! 私がこんな腹立ってるんはあの人の責任や!って。これが『二の矢』やねん。」
「つまり、仏弟子は出来事という『一の矢』を心に受けて感情は反応することはあっても、自分で勝手に都合のええ理由をつけて『二の矢』を受けることないねんで~」
記録に残っているお釈迦さまの言葉(原文)は関西弁ではありませんが、『二の矢』を受けないという概念はご理解いただけましたか?
子どもの様子が「心配」なのは愛情ある親なら当然ですが、さらに、よくない未来を想像すると『二の矢』も『三の矢』も受けてしまうかもしれません。
誰にも未来のこと、相手の本当の気持ちなどはわからないものです。
仏弟子のように…とはいかないかもしれませんが、「自分自身の「想像」や「妄想」で悩んでいることに気がつくことが大事なんやで~」とお釈迦さまは言っているのかもしれません。